コラム

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悲しい伝説が残る美しい鏡ヶ池 ─ 魚沼市大栃山 ─

魚沼市大栃山周辺は中世応永7(1400)年頃、信州筑摩郡犬飼郷の地頭の犬飼兵衛太郎貞長が足利義満から広瀬郷穴沢(現在の入広瀬地区全域)を賜った場所であります。貞長の三男犬飼小二郎長宗が初めて穴沢の地に入ってきて、犬飼の姓を改め穴沢を名乗ったと言われます。長宗は領内にあります鷹待山に城を築き、上杉方に属し、会津境となる六十里越の守備を行います。後に上杉氏の会津移封に伴い廃城になるものの、慶長5(1600)年の越後一揆(上杉遺民一揆)の際には下倉山城攻略の一大拠点となりました。その城の傍には鏡ヶ池と呼ばれる雪解け水が溜まった池(水源地)があり、水田、飲料水など人々の生活の助けとなりました。
当地域の池にも幾つかの伝説・物語があります。女神が手鏡を池に落とし水面を鏡がわりにして髪を梳いたという伝説や「母親から頂いた形見の鏡と娘」の話で、大事な鏡を池に落とし、なんとか拾うと飛び込むも命を落としてしまう悲しい物語などがあります。
池周辺には、桜並木やブナ林がありますので、山城や古道の散策を兼ねてお出かけしてみてはいかがいでしょうか。

和議が成立したのに、本当に「道満丸」は殺されたのか?

上杉謙信の養子であった景虎の息子、「道満丸」は9歳の若さで殺害されたとする通説があります。それは、謙信無き後の後継争いで景勝と影虎が争った「御館の乱」での出来事です。当時、上杉憲政の御館に劣勢濃厚になった影虎が道満丸を人質とする和議を、争いの相手である景勝に申し立てて受け入れられたといわれています。和議が成立したことで、人質である道満丸と憲政は、約束の引き渡し場に向かいはしましたがが、景勝の手下によって二人とも殺害されました。
義と愛を貫いた景勝が、本当に和議を前提とし、9歳であった幼い道満丸を殺害したのでしょうか?
長野県栄村の常慶院は、上杉謙信の庇護の元、隆盛した名刹です。上杉家が会津へ、そして、米沢へ国替えした際も常についていった寺院です。この名刹・常慶院付近では、道満丸は、景勝の縁戚であった在地豪族の市川新六郎にかくまわれて、志久見の地で育ったと口伝されています。また近年、憲政と道満丸は、直江津の五智から海路、青森の今別に逃げ、遠地で生涯を遂げたとする新たなる「道満丸生存説」が浮上してきました。
さてさて、歴史ロマンの深淵に触れる醍醐味は胸ワクワクするものです。まずは千曲川流れる市河谷の常慶院近傍を探訪してみませんか!

天水越の管領塚について

十日町市松之山地区天水越、旧松里小学校のわきにある管領塚(かんれいつか・かんりょうつか)は、戦国時代初頭に越後国の守護を務めた上杉房能(うえすぎふさよし)が、この地で自刃したことを慰霊するために建てられたものです。房能は直峰城に隠居して関東管領の権威の元に政治を行っていましたが、永正4(1507)年、守護代であった長尾為景(上杉謙信の父)と対立して越後国府(上越市)を出て上野国(群馬県)に落ち延びようとする途中で、わずかな家臣とともに自刃したと言い伝えられています。

浦佐毘沙門堂の裸押合の習俗
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財

毎年3月第一土曜日、魚沼地方に春の訪れを告げる裸押合祭りが盛大に行われます。毘沙門堂のある浦佐は古くから三国街道の宿場町、魚野川の河川交通の拠点、そして毘沙門堂の門前町として栄えてきました。
毘沙門堂は、大同2(807)年に坂上田村麻呂が建立したといわれています。この時に預けられた金銅製毘沙門天座像は別行殿に安置され、その御開帳は普光寺住職が一代一度と定められています。現在の毘沙門堂の本尊は椿材で作られた毘沙門天立像で、見附市椿沢町の椿の大樹が献納されたといわれています。浦佐と同じ椿の木で作ったと伝えられる毘沙門天像が県内各地に存在しており、浦佐の毘沙門天信仰の影響の強さがうかがえます。
裸押合は、水行で身を清め、我さきに毘沙門天へ参拝するために始まったともいわれています。新潟県内外の講中から奉納された福餅や、盃・穀種・弓張提灯などが屋根の上や毘沙門堂内の押し合いの中で撒与され、参拝者は福を得ようと奪い合います。『北越雪譜』には提灯の骨一本でも田の水口にさせば、稲の実りが良くなり虫もつかなくなると書かれています。
祭りの場面場面で披露される「豊年踊り」や、クライマックスに行われる「ササラスリ」は非常に重要な儀式です。「ササラスリ」というのは、京都の石清水八幡宮からもらい受けた竹で作製したササラと呼ばれる棒をすり合わせ、心の中で真言を唱えて豊作を祈願します。裸押合祭りには、年の初めに豊作を祈願する、という意味合いもあるのです。これらの祭りの準備や運営、進行について、地元の義務教育終了後から30歳までの若者から構成される『浦佐多門青年団』によって取り仕切られることも、この祭りの大きな特徴と言えます。

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