中世前期の動きを石造物が語ります

中世前期の動きを石造物が語ります

津南町・赤沢・永和梵字碑

石造物の一部には、造立した年が刻まれている場合があり、その年を「紀年名」と呼びます。南北朝の内乱は、一般的に元弘の乱(1331年)から後醍醐天皇が京都に政権を樹立した“建武の新政”(元弘3:1333年)の時期、そして、建武3(1336)年の南北両朝の抗争激化を経て、1343年の北朝方が優勢を決定する時期、さらに室町幕府の内部紛争である観応の擾乱(1350〜1352年)で南朝方が息を吹き返し、南朝方の活動が九州に限られ、足利義満が全国を統一して、南北両朝が合体した明徳3(1393)年までの62年間を指します。
その頃、魚沼地方にも南北朝の内乱の嵐が吹き、争いを背景に勢力の拡大、縮小が生じたようです。それを知る一つの史実が「板碑」と呼ぶ石造物です。本来、板碑の名前の如く、北関東では緑泥片岩という深緑色した板状の石を使った供養塔が数多く作られました。魚沼地方にも、関東地方から運ばれた緑泥片岩製の板碑が数は少ないですが発見されています。また、この魚沼地方には独自の「魚沼板碑」と呼ばれる灰黒色した川原石を利用した板碑が数多く確認されています。特に、南魚沼市大崎地区と十日町市川西地区に数多くの魚沼板碑が集中的に分布します。
この板碑には、紀年名が刻まれています。この魚沼地方は、南魚沼市を中心とした魚野川流域と十日町市を中心とする信濃川流域に分かれます。この二つの河川流域に分布した板碑の造立年代を調べ、並べてみると、当時の勢力図の一端が垣間見ることができます。
このたびの調査で142基の板碑を確認しました。魚野川流域に98点、信濃川流域に44点ありました。大半が自然石ですが、緑泥片岩が5点含まれています。そこに刻まれていた紀年名を見ると、魚野川流域では北朝年号が52基あり、南朝年号が9基あります。一方、信濃川流域には、北朝年号が8基、南朝年号が11基でした。さらに、細かく検討するならば、面白い傾向が認められます。

魚野川流域の板碑群は、1311年が最古であり、1344〜1358年、1368〜1388年、1432〜1444年の3つの時期に造立活動が認められます。また、南朝年号の板碑は、1347年〜1363年に掛けて造立され、北朝年号の板碑と同時併存する状況が認められます。
信濃川流域でも、1311年の造立が最古であり、初期の2基は緑泥片岩に類似する板状の石が選択されています。造立前半期は南朝年号が優勢ですが、後半期には北朝年号に入れ替わります。
このように武士階級の供養塔であった板碑群を散策し、南北朝動乱の波が打ち寄せた魚沼地方の歴史ロマンに触れ、夜には郷土料理と地酒で語り合う旅も素敵ですね!

南魚沼市・大崎・龍谷寺板碑
紀年名別個数
年代が正確に特定できないものは除く。
雪国観光圏