魚沼郡の官駅十日町の南七里(約27km)ばかり、妻在庄(十日町市)の山中此へんすぺて上つまりといふに田代といふ村あり。村を去事七八町(約760m〜870m)に七ツ釜といふ所あり、里俗滝つぼを釜といふ 滝七段あるゆえに七ツ釜とよびきたれり。銚子の口不動滝などいふも七ツ釜の内にて、妙景奇状筆をもつて云べからず。第七番目の釜の地景をここに図するをみて其大概をしるべし。此所の絶壁を竪御号横御号(たておごうよこおごう)といふ、里俗伊勢より御師の持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶壁の石かの箱の状に似たるをもつて斯いふなり。その似たりといふは此ぜつへきの石どもの落ちてあるを視れば、厚さ六七寸(約20cm)ばかりにして平みあり、長さは三四尺(約90cm〜1m20cm)ばかり、長短はひとしからず、石工の作りなしたるが如し。此石数百万を竪に積重ねて、此数十丈の絶壁をなす也。頂は山につづきて老樹欝然(うつぜん)たり、是右の方の竪御(たてお)がうなり。左は此石の寸尺にたがはざる石を横に積かさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行儀よくつみあげたるごとく寸分の斜なし、天然の奇工奇々妙々不可思議なり。此石の落たるを此田代村の者さまざまの物に用ふ、片石にても他所に用ふれぱ崇ありし事度々なりとぞ。余文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇景を尋て目撃したるを記す。天の茫々たる他国にも是に似たる所あるぺし、姑くその類を示す。
◯百樹曰、余仕に在し時同藩の文学関先生の話に、君侯封内の山(丹波笹山)に天然に磨(ひきうす)の状したる石をつみあげて柱のやうなるを並て絶壁をなし、満山此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる磨の状の石を産する所ありと春暉が随筆にて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。
◯又尾張の名古屋の人吉田重房が著したる筑紫記行巻の九に、但馬国多気郡納屋村より川船にて但馬の温泉に抵る途中を記したる条に曰く、○猶舟にのりて行。右の方に愛宕山、宮島村、野上村、石山 地名 など追続てあり。此石山の川岸に臨れる所に奇しき石あり、其形ち磨磐の如く、上下平にして周は三角四角五角八角等にして、石工の切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる跡もありて洞のごとし。天下の広きには珍奇なる事おほきものなりけり云云。是も奇石の一類なれば筆の次にしるしつ。(北越雪譜 二編巻之三より)