浦佐の堂押

我住塩沢より下越後の方へ二宿(六日町、五日町)越て浦佐といふ宿あり。ここに普光寺といふあり、寺中に七間(約13m)四面の毘沙門堂あり。伝ていふ、此堂大同二年の造営なりとぞ。修復の度毎に棟札(むねふだ)あり、今猶歴然と存す。毘沙門の御丈三尺五六寸(約1m)、往古椿沢といふ村に椿の大樹ありしを伐て尊像を作りしとぞ。作名は伝らずとききぬ。像材椿なるをもつて此地椿を薪とすればかならず崇あり、ゆえに椿を植ず。又尊れい鳥を捕を忌たまふ、ゆえに諸鳥寺内に群をなして人を怖ず、此地の人鳥を捕かあるひは喰ば立所に神罰あり。たとひ遠郷へむこよめにゆきて年を歴ても鳥を喰すれば必凶応あり、霊験のあきらかたる事此一を以て知るべし。されば遠郷近邑信仰の人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜に限りて堂押といふ事あり、敢祭式の礼格とするにはあらねど、むかしより有来たる神事なり。正月三日はもとより雪道なれども十里二十里より来りて此浦佐に一宿し、此堂押に遇人もあれば近村はいふもさらなり。
◯さて押に来りし男女まづ普光寺に入りて衣服を脱ぎすて、身に持たる物もみだりに置きすて、婦人は浴衣に細帯まれにははだかもあり、男は皆裸なり。燈火を点ずるころ、かの七間四面の堂にゆかた裸の男女推入りて、錐をたつるの地なし。余も若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどにせまり立けり。押といふは誰ともなくサンヨウサンヨウと大音に呼はる声の下に、堂内に充満たる老若男女を、サイコウサイとよばはりて北より南へどろどろと押、又よぱはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女倶に元結おのづからきれて髪を乱す事甚奇なり。七間四面の堂の内に裸なる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気息正月三日の寒気ゆえ烟のごとく霧のごとく照せる神燈もこれが為に暗く、人の気息屋根うらに露となり雨のごとくに降、入気破風よりもれて雲の立のぼるが如し。婦人稀には小児を背中にむすぴつけて押も有ども、この小児啼ことなきも常とするの不思議なり。いはんや此堂押にいささかも怪我をうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯具ばかりなるもあれど、暗き処に噪雑して一人もみだりがましき事をせず、これおのおの毘沙門天の神罰を怖るゆえなり。裸なる所以は人気にて堂内の熱すること燃がごとくなるゆえ也。願望によりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気肌を射がごときをも厭ず、柱のごとき氷柱を裸身に脊負て堂押にきたるもあり。二たおし三おしにいたればいかなる人も熱こと暑中のごときゆえ、堂のほとりにある大なる石の手水鉢に入りて水を浴び又押に入るもあり。一と押おしては息をやすむ、七押七踊にて止を定とす。踊といふも桶の中に芋を洗ふがごとし。ゆえに人みな満身に汗をながす。第七をどり目にいたりて普光寺の山長手に簓を持、人の手車に乗て人のなかへおし入り大音にいふ。「毘沙門さまの御前に黒雲が降た モゥ」衆人「なんだとてさがつたモゥ」山男「米がふるとてさがつた モゥ」とささらをすりならす。此ささら内へすれば凶作なりとて外へ外へとすりならす。又志願の者兼て普光寺へ達しおきて、小桶に神酒を入れ盃を添て献ず。山男挑燈をもたせ人をおしわくる者二十人ばかりさきにすすみて堂に入る。此盃手に入れば幸ありとて人の濤をなして取んとす。神酒は神に供ずる状して人に散し、盃は人の中へ擲る、これを得たる人は宮を造りて祭る、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも争ひ奪ふにかならず破る、その骨一本たりとも田の水口へさしおけば、この水のかかる田は熟実虫のつく事なし。神霊のあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神事をはれば人々離散して普光寺に入り、初めすて置たる衣類懐中物を視るに鼻帋一枚だに失る事なし、掠れば即座に神罰あるゆえなり。
○さて堂内人散じて後、かの山長堂内に苧幹(おがら)をちらしおく事例なり。翌朝山長神酒供物を備ふ、後さまに進て捧ぐ、正面にすすむを神の忌給ふと也。昨夜ちらしおきたる苧幹寸断に折てあり、是人散てのち諸神ここに集りて踊玉ふゆえ、をがらを踏をり玉ふなりといひつたふ。神事はすべて児戯に似たること多し、しかれども凡慮を以て量識べからず。此堂押に類せし事他国にもあるぺし、姑記して類を示す。(北越雪譜 二編巻之一)

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