上杉謙信 越山の地

上杉軍道と信濃川防衛 十日町市


十日町市の概要

十日町市の中央部には、南西から北東に向かって日本一の大河「信濃川」が流れ、その両岸には河岸段丘が発達し、西側には東頸城丘陵、東側には魚沼丘陵が連なり十日町盆地を形成しています。日本有数の豪雪地帯として知られ、冬に降り積もった多くの雪が、春になると雪解け水として丘陵から流れ出し、小河川を通して信濃川に流れ込みます。河岸段丘上や河川流域には広大な圃場が広がり、魚沼産コシヒカリの産地として全国的にも有名です。織物の街としてかつては京都の西陣織と並ぶ絹織物の一大生産地でした。河岸段丘上には縄文時代の遺跡が多く分布し、笹山遺跡から出土した火焔型土器・王冠型土器を含む深鉢形土器群は、平成11年に新潟県唯一、かつ全国で初めて縄文土器の国宝に指定されました。

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上杉軍道と信濃川防衛


室町時代の応永年間(1394〜1428)になり、越後守護上杉氏から関東管領が出ると関東地方との交流が多くなりました。その後、越後国内における戦国時代の始まりは、永正期(1504〜1520)の頃と考えられています。越後国府には妙雲院妙昭(みょううんいんみょうしょう)や倉俣実経(くらまたさねつね)ら、妻有出身の僧侶や土着の武士が守護上杉氏の奉行として在府し、上杉氏と越後守護代の長尾氏との関係性を早くから築いていました。元来、室町時代の妻有荘は、関東管領山内上杉氏の家領で、関東や信越に接する国境地域だったことから、関東を支配する山内上杉氏にとってこの地域は大変重要な場所だったと考えられています。そのため、永正期に勃発した「永正の乱」では、十日町から津南地域にかけての妻有荘が一つの戦いの拠点となり、武士ではない「地下人(じげにん)」と呼ばれる地域の住人が戦いに参加して活躍したという史実を文献史料から伺うことができます。永正の乱をきっかけとし、守護代長尾氏が台頭して下克上が起こると、十日町地域の土着の武士たちも進んで長尾氏の配下になったことが知られています。その後も越後国内で勢力を伸ばした長尾氏からのちの上杉謙信が生まれ、関東管領山内上杉氏を継承していくことになります。

永禄3(1560)年8月以降、「越後国主」長尾景虎(上杉謙信)は、関東管領上杉憲政から庇護を求められ、ほぼ毎年のように関東遠征(越山)に向かいました。上杉軍が進軍した道は通称「上杉軍道」(約76㎞)と呼ばれ、のちの松之山街道として知られています。春日山城(上越市)を出発して直峰城(上越市安塚区)で1泊し、室野城の脇を進んで蒲生城と松代城の間をすり抜け、2泊目の目的地である犬伏城へ向かいました。犬伏城を出発した上杉軍を待ち受けるのが渋海川の渡河と薬師峠越えで、渋海川と薬師峠の比高差は約200mありました。そして最大の難所だったと考えられるのが信濃川の渡河です。信濃川右岸の高島城と左岸の琵琶懸城は、信濃川渡河点を守る上杉軍の要衝に築かれた中世の要害として伝えられています。信濃川両岸には現在の津南町から小千谷市まで、段丘崖上に大小多くの崖端城が築かれ、信濃川水運を監視することの重要性を考えると、いかに信濃川が重要な防衛線だったかが想像できます。信濃川を渡った上杉軍は3泊目を琵琶懸城で迎え、琵琶懸城を出発して魚沼丘陵上にある栃窪峠を越えて樺沢城へと向かい、関東方面の三国峠を目指しました。上杉軍道は謙信の指示により、坂戸城主だった長尾政景が交通路整備をしたと考えられており、迅速な移動を行えるよう整備が長く続けられました。

犬伏城跡


築城年代は不明で、観応年間に北朝方の原田喜太郎が本拠地として南朝方と交戦したと伝えられています。その後貞治年間に上杉家家臣の丸山禅正、永正年間に清水采女正などが城主として治めました。御館の乱では武田勝頼が上杉景勝を応援するため軍を送り妻有荘に到着した際に坂戸城に入城したことから、坂戸城主の小森沢政秀は城を明け渡し犬伏城に移動しました。慶長3年の上杉景勝会津移封後、堀氏の支配となりましたが、慶長15年に廃城となりました。犬伏城の南東に現在の犬伏集落があり、当時は居館があった場所で空堀などが現在も残っています。

市指定史跡

節黒城跡


築城年代は不明で、南北朝時代の正平年間に新田義宗により築かれた説と、文和~延文年間に上野氏に築かれた説の2説伝えられています。また、発掘調査で発見された遺構から、新田氏が築いた旧節黒城を大改修し新節黒城を上野氏が構築したとも考えられています。

市指定史跡

松芋神社


明応6(1497)年に建立された県内最古の茅屋根葺の木造建築物で、奴奈川姫命を祭神として坂上田村麻呂により創建されたと伝えられています。近郷の総鎮守で「松芋大権現」と呼ばれ、「麻織物の神」として信仰を集めました。上杉謙信が寄進したと伝えられる短刀(銘 備前長船兼光)と日の丸の軍配が奉納されていました。短刀と軍配は犬伏集落で保管され、実物の公開はされていませんが、まつだい郷土資料館でレプリカが展示されています。神社の本殿は昭和53年5月に国指定重要文化財(建造物)に指定されています。

国指定重要文化財(本殿)/市指定文化財(木造狛犬、短刀、軍配、俳句献額、大スギ)

琵琶懸城跡


構築年代は不明で、南北朝時代に羽川氏により築かれたと伝えられています。天正年間に上杉家の「御家中諸士略系譜」で、金子次郎右衛門が琵琶懸城に在城していた記述があります。琵琶懸城は大規模な平城で、信濃川右岸の段丘先端にあることから、対岸にある高島城とともに渡河地点だったと考えられています。1郭から4郭まであり、土塁や丸馬出、堀なども構築されています。現在でも多くの遺構が残る貴重な城跡です。

大井田城跡


築城年代は不明で、南北朝時代の越後新田一族の中心勢力だった大井田氏の本拠と伝えられています。山頂に一辺約30mの三角形状の主郭があり、その東側の尾根に二条の空堀が構築されています。主郭の西側には緩やかな傾斜の扇状地形を利用し、大小の郭を2列3段に積み重ね、その前面に2段の帯郭を巡らせています。その他にも高さ2mほどの土塁や畝形阻塞等の遺構も確認されています。

県指定史跡

伊達八幡館跡


信濃川右岸の段丘上に立地する中世の館跡です。昭和62年に県営圃場整備事業に伴い発掘調査が行われ、約12,000㎡の調査で館跡全域と周辺の状況が確認されました。複郭式の館跡で、主郭と副郭、郭外で構成され、主郭では掘立柱建物が15棟、井戸や排水溝等が確認されました。出土遺物から15世紀〜16世紀前半の館跡と考えられ、出土遺物のうち主郭西堀から出土した龍耳壺、管耳瓶、燭台、錫杖頭等の銅製仏具を含む281点が新潟県指定文化財に指定され、出土遺物は十日町市博物館で展示されています。

神宮寺


曹洞宗臨泉山神宮寺は、大同2(807)年に坂上田村麻呂が開基したと伝えられています。十日町市四日町にあり、平安時代後期の本尊十一面千手観音立像と平安時代末期の四天王立像(伝広目天・伝毘沙門天)が新潟県指定文化財に指定されています。また、宝暦11年から明和6年にかけて造られた山門(茅屋根葺の入母屋造、高さ15m)、安永2年から天明2年にかけて造られた観音堂(茅屋根葺の入母屋造)も県指定文化財に指定されています。

県指定文化財(観音堂、山門、十一面千手観音立像、四天王立像)/市指定史跡(境内及び山林)