上杉謙信 越山の地

越山の拠点 湯沢・南魚沼


湯沢町の概要

湯沢町は新潟県の中部最南端に位置し、三国山脈(越後山脈南部)の北側に開けた町で、長野県・群馬県と隣り合っています。総面積の94%が山地で、町の東側、南側、西側の三方を海抜2,000m前後の山々に囲まれ、北側には六日町盆地が連続しています。越後と上州や関東とを結ぶ場所であることから、古くから人や物の行き来を支えた土地です。現代では国道17号のほか、JR上越線・上越新幹線、関越自動車道といった高速交通網が発達し、首都圏からの日帰りも可能な観光地となっています。
その一方で、山に囲まれた湯沢町は修験者の修行場としても栄え、中世以来と伝えられる修験寺も湯沢、熊野堂、土樽地区にみられます。石白の泉福寺跡と伝えられる場所の近辺からは大量の古銭が出土しており、三国街道の重要な拠点として賑わっていた往時の姿が想像されます。
現在も温泉を楽しめる湯沢町ですが、万里集九による記述から、中世の頃には「鈎懸の湯」(現在の貝掛温泉)が湧いていたといわれています。

南魚沼市の概要

関東方面から湯沢の谷を抜け、最初に広く開けるこの地域は六日町盆地と呼ばれています。東西の山地からは数多くの中小河川が盆地の中央を北流する魚野川に注ぎます。これらの河川の作用により扇状地が発達していることがこの地域の特徴です。新潟県内有数の古墳群である飯綱山古墳群が築造されるなど古くから繁栄し、また魚野川を利用した舟運や市、街道の宿場として発達してきました。また、霊峰といわれる山々も多く存在し、修験などの山岳信仰が盛んで、特に八海山の麓で行われる火渡りは有名です。このような信仰的土壌を背景に、戦国時代には有力者の庇護を受けた臨済宗・曹洞宗の大寺院が作られました。上田荘と呼ばれるこの地を拠点とした上田長尾氏からは上杉景勝を輩出しました。特産品であった麻織物は上杉氏の経済的基盤の一つであり、現在は「越後上布」と呼ばれ、その製作技術は国の重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産として継承されています。

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普光寺


真言宗豊山派吉祥山普光寺は、毘沙門堂を管理する別当として建立されました。鎌倉時代以降、武将や領主たちから手厚い庇護を受け、上田長尾氏、上杉謙信や景勝、堀氏などから送られた古文書が数多く残されています。
山門は日光東照宮陽明門を手本として天保2(1831)年に完成しました。二階には、幕府御用絵師である板谷桂舟により描かれた天井絵や壁画が残されています。
寺の裏山には戊辰戦争の際に小出島の戦いで死亡した薩摩・長州藩兵の墓があり、その遺品も大切に保管されています。

南魚沼市浦佐2495
市指定文化財(楼門、文書群、ケヤキ群、裸押合祭)

浦佐城跡


普光寺の背後、三国街道や魚野川を見下ろせる薬師山に築かれた、標高約300mに立地する中世の山城です。御館の乱の際には清水藤左衛門が浦佐城の守備を命じられています。

南魚沼市浦佐/市指定史跡

雷土城跡(板木城跡)


南魚沼と北魚沼の境界に築かれた境目の山城です。その立地故に幾度も戦いの舞台となったことが古文書に記されています。

南魚沼市雷土、魚沼市板木/市指定史跡

長森原古戦場


永正7(1510)年、越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)が関東管領上杉顕定を返り討ちにした下剋上の戦いの舞台です。付近は寺浦百塚など非常に多くの塚が存在しています。

南魚沼市下原新田121-44

龍谷寺


曹洞宗龍谷寺は、堂平遺跡がその前身といわれ、現在の境内周辺も大崎館跡の居館跡と考えられています。本堂には石川雲蝶や小林源太郎により彫られた欄間があります。

南魚沼市大崎3455/市指定文化財(欄間)

君帰観音


君帰観音は、建久7(1196)年に建立された観音堂の本尊である木造聖観音立像のことです。33年に一度御開帳されます。源義経一行が立ち寄った際に経典とともに納められたといわれています。

南魚沼市君帰1094/県指定文化財

天昌寺


延徳年間に曹洞宗に転じ、天正年間に今の名前になったといわれています。本堂の欄間彫刻は、熊谷の小林源太郎の作です。

南魚沼市思川39/県指定文化財(仏像、12~4月は拝観不可)
市指定文化財(欄間)

坂戸城跡


坂戸城は中世の山城で、御館の乱の際には関東方面への防御の要となりました。上杉氏の国替えにより入部した堀直竒により近世城郭として整備されましたが、慶長15(1610)年に堀氏が国替えになったため廃城となりました。麓には居館跡が作られ、その前面の土塁には自然石を積み上げた石垣が残ります。居館の前面には平坦面が広がり、家臣屋敷跡があったといわれています。春にはカタクリが群生します。さらにその先には埋田といわれている魚野川の旧河道があり、これが内堀の役目をしていたと考えられています。標高634mの山頂の郭は実城と呼ばれ、富士権現の社が建立されています。東側斜面には石積みも見られます。現在登山道が整備され、多くの登山者が訪れています。

南魚沼市坂戸/国指定史跡

雲洞庵


応永12(1405)年、顕窓慶字により開かれた寺院。参道には法華経が書かれた石が埋められ、そこを歩くとご利益があることから「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれました。

南魚沼市雲洞660/県指定文化財(本堂)

塩沢大館


三国街道と関東への最短ルートである松之山街道の交差点に築かれた館です。鈴木牧之によると南北朝時代に新田一族の大舘蔵人により築かれたとされています。

南魚沼市塩沢

樺沢城跡


御館の乱では一時期北条方に占領されるなど、激しい戦場の舞台となりました。麓の龍澤寺には上杉家縁の古文書や仏像が残ります。

南魚沼市樺野沢・大沢/県指定史跡

関興寺


臨済宗円覚寺派最上山関興寺は、応永17年に関東管領上杉憲顕の子といわれる覚翁祖伝和尚が高僧の普覚円光禅師を招いて開山したといわれています。

南魚沼市上野267

薬照寺


真言宗智山派瑠璃光山薬照寺は寛徳2年に開山されたといわれています。石段の上の大カツラは推定樹齢250年といわれる大木です。昭和20年、ビルマ国(現ミャンマー国)首相のバー・モウが亡命したお寺として有名です。

南魚沼市君沢851/県指定天然記念物(大カツラ)

石白古銭出土地


本州で第1位の出土量を誇る古銭の出土地。上杉房定と関係が深い「泉福寺」の跡地と考えられることから、当時の軍資金だったのではないかとも考えられています。

湯沢町大字湯沢1855番地

荒戸城跡


天正6(1578)年の御館の乱の際に、上杉景勝が築城させた城です。いつ、誰が、何のために築城したか特定されている、全国的にもまれに、文献史料が豊富に残る城跡です。また上杉遺民一揆が立てこもった城と推定されており、江戸時代を通して、悪用を恐れた領主が、民衆の立ち入りを禁止したとも言われます。そのため戦国期の山城としては遺構が比較的良く残っていることも大きな特徴です。御館の乱では、上杉―北条―上杉―北条―上杉と相次いで城が渡り、それぞれによる改修が短期間に行われているため、上杉・北条両氏の戦国後期における築城の特徴が残っています。小さな城なので、全体像を把握しやすく、城跡初心者にも比較的わかりやすい造りです。

湯沢町大字神立字袖山 新潟県指定史跡

魚沼神社


延喜18(918)年、「神立三社大明神」との社号を授与されたとの告文も残っています。雷火で社殿が炎上したため、応永34(1427)年に宮換戸の地から現在の宮林に遷宮されました。

湯沢町大字神田487

伊米神社


苗場山の里宮として建てられた神社。創立の年代は分かっていません。伊米神社の祭日である7月12日には、地域の方が昔ながらの衣装を身に着けて地域の集落をまわります。

湯沢町大字三俣

三国権現


三国峠の頂上にある三阪神社が三国権現と呼ばれています。桓武天皇の延暦年中(791年頃)征夷大将軍 坂上田村麻呂が越後の弥彦神社・信州の諏訪明神・上州の赤城明神の三社を祭って祈願し、更に三国峠に祀ったのが三阪神社の起源であると伝えられています。

湯沢町大字三国

浅貝寄居城跡


浅貝の地は上杉謙信が越山をする上で度々利用した土地。永禄13(1570)年に沼田との往復の拠点、元亀2(1571)年には軍事拠点としていたことが書状からわかります。

湯沢町大字三国字上寄居

三国峠清水峠


中世の越後国は、関東に大きな影響を持つ国でした。中でも上田荘(湯沢町~南魚沼市一帯)は鎌倉北条氏、新田氏、足利氏、上杉氏と、中央の情勢に大きな影響力を持つ人々の領地になっていました。上田荘は、越後と関東をつなぐ「三国街道」「清水峠道」が収束し、それを監視できる土地として重要な土地だったのです。
三国街道は、最も標高の低い所を通る経路で、距離は長いですが、労力が少なくてすむため、古くからよく使われています。しかし災害や季節などにより少しずつ道筋が変わっているので、当時の道筋を正確には断定はできません。
また三国街道は多くの舞台になっています。治承・寿永の乱(源氏が平氏を打倒する内乱)では木曽義仲と戦った城氏の一軍が越え、南北朝時代では新田義貞の死後、義貞の遺子が再蜂起した際の拠点になったとも言われます。室町時代後期では、越後守護の上杉房定が7回も三国峠を越えています。また上杉房定は文化人として有名で、聖護院門跡の道興、東福寺の万里集九、常光院の尭恵などが越後を訪ねて三国峠を越えています。
上杉謙信の時代になると、17年の間に16回も国境を越えており、その多くの場合、謙信が造らせた「寄居城」のある三国峠を越えていたと考えられます。謙信の死後、上杉景勝は「御館の乱」の最中に三俣集落の湯沢側の山に三国街道を見下ろすように「荒戸城」を築いていて、三国街道の難所をおさえることの重要性がうかがえます。
清水峠道は、急峻ですが最短経路のため、中世では軍用道路として使われていました。史料上の初見は「清水城(直路城)」そして「荒戸城」を築くように命じる上杉景勝の書状ですが、 文面から、以前から利用されていたことがわかります。

街道をおさえる越後の要地「上田庄」