上杉謙信 越山の地

『雪国観光圏』と戦国時代


雪国観光圏とは


雪国観光圏は、新潟県魚沼市、南魚沼市、湯沢町、十日町市、津南町、群馬県みなかみ町、長野県栄村の3県7市町村にまたがる広域観光圏です。
世界で最も雪が深いと言われているこの地域では、10,000年以上も前から人が住み続け、雪国ならではの暮らしや知恵を受け継いできた歴史があります。雪国観光圏は広域で連携することで、これらの価値をつなぎ合わせ、磨き上げながら、100年後も続く地域を目指しています。

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『雪国観光圏』と戦国時代


3市3町1村(十日町市・魚沼市・南魚沼市・湯沢町・津南町・みなかみ町・栄村)により構成される「雪国観光圏」は、豪雪地帯として全国的に知れ渡っています。しかし、豪雪地帯といえば北海道・東北といった北国や北陸地方も有名です。しかし、ここで扱う地域を見ると「首都圏を抱える関東地方とは、風光明媚な山岳地帯を挟んで直接接している」といった、他の地域には見られない好条件に恵まれた環境下にあると言っても良いでしょう。それ故に、他の豪雪地帯よりも戦後いち早く鉄道・道路といった交通・通信施設の整備が進められ、それに伴い関東地方からの集客や、「雪国観光圏」ならではの観光物産・基幹産業である農産品の首都圏への供給地としての機能を果たしてきました。

本冊子で取り扱う戦国時代の関東では、いち早く下克上の世を成し遂げた北条氏がその大半を勢力下に治め、その勢力は「雪国観光圏」を形成する上信越地域にまで及ぼすといった動きをみせるようになります。ちょうどその頃、越後国(新潟県)では守護職を継いだ上杉謙信が登場、「雪国観光圏」地域を含む越後国に安定した勢力基盤を作り上げていたのです。

そうした背景の下、謙信はますます不安定化する関東に軍を進め、遂には北条氏の本拠である小田原城を包囲するなど、幾度となく関東に出兵しています。こうした動きは、その度に関東との境に位置する風光明媚な山岳地帯を越えることから、「越山」(えつざん)として当時を記した古文書や古記録に見ることができます。

しかし、謙信の死とともに他国からの干渉を受けることになるのです。謙信には景虎と景勝といった二人の養子がおり、その跡目争いが他国衆の侵入を許したのでした。景虎は、関東の雄北条氏康の七男として生まれた人物であることから、当然のように北条氏に支援を要請しました。これに対して景勝は、宿敵である武田勝頼(川中島で幾度となく争った武田信玄の子)に救いの手を求めたのです。南からの侵入者である北条氏の湯沢町・南魚沼市といった地域に「逆越山」の形で侵攻を許し、一方で長野県北部に位置する栄村を足がかりに津南町・十日町市域には武田氏の駐留を認めざるを得ないといった状況に陥ったのです。これが天正6(1578)年に起こった御館の乱と呼ばれる事件です。当初は、南魚沼市に築かれた樺沢城を占拠するなど、北条勢が有利に展開していました。

しかし、越年を余儀なくされた北条勢は豪雪には不慣れなこともあり、結局は関東に引き揚げざるを得ず、これを契機に戦局も景勝側に有利に進むようになりました。最終的には、景虎が自害するに及び、北条氏にとって何ら得ること無く幕引きとなるのでした。こうした事例は、「雪国観光圏」なるが故の利点として現れた顕著なものでありましょう。津南町・十日町市域についても、武田家滅亡とともに上杉氏の領土として元の鞘に治まるといった形で終結したのです。

一方、「雪国観光圏」の中でも、唯一群馬県に位置するみなかみ町は様相を異にします。御館の乱により上杉氏と武田氏との間には越甲同盟が結ばれ、上野国(群馬県)北毛地域(みなかみ町を含む利根・沼田地域)は、これまでの上杉氏から武田氏へと移管が認められ、北毛地域の拠点である沼田城を中心とした地域を武田氏が支配するに及びました。武田氏が滅んだ後にも、武田氏の重臣であった真田氏がそのまま支配を続けたことから、その後も関東制覇を企てる北条氏との間で抗争が続くのでした。これも、天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原征伐により、ようやく領土をめぐる問題が解決されるに及びました。 このように、「雪国観光圏」に見る戦国時代は、上杉謙信の死を境に大きく変動したことが理解できます。こうした歴史を踏まえ、実際に足を運ばれ戦国時代の城郭に思いをはせて頂ければと思います。

中世城館跡の縄張り図を読む


図1 荒戸城跡縄張り図(鳴海忠夫作図に一部加筆修正)

「雪国観光圏」に見られる城館跡には、特別な特徴があるのでしょうか。現在のところ、雪国なるが故の特徴と捉えられる事例は明確ではありません。
ここでは、城館跡研究にとって最も基本的な資料と位置付けられている縄張り図を基に、城館跡の見方・観察方法について、基礎知識習得の一助となる目的でまとめてみました。
城館とは、戦国時代における領域支配のための軍事的・政治的役割を担う施設であり、それだけに敵方からの襲来を阻止する装置が巧みに配置された施設なのです。それでは、巧みに配置された装置とは、どういったものがあるのでしょうか。それが堀であり土塁であり、出入り口を防御する馬出などがそれに当たります。

図1は、湯沢町に現在でも往時の姿を良好に残している荒戸城跡の縄張り図です。図中の右上にある大手とは、入城する際の表口に当たり、ここより城の中心であるⅠ郭に至るまでの防御施設の起点となります。Ⅰ郭を守るために配されたⅡ郭北側には堀が廻らされ、そこには土橋を伴う出入り口に当たる虎口(こぐち)が配置されています。さらにその外側にも土塁が配置されています。これは虎口からの侵入を防ぐ目的の防御施設で馬出(うまだし)と呼ばれています。さらにここでは、Ⅱ郭内側に対しても枡形虎口が設けられ、厳重に防御されていることが窺えます。
同じようにⅢ郭西側搦手口も馬出・枡形虎口が配置されており、またⅠ郭南西方に続く尾根にも、大きな堀切をもって適からの侵入を防いでいることが読み取れます。こうしたことから、城内への侵入を阻止する意図がハッキリと読み取れる縄張りが採られていたことが分かります。
この城跡の特徴のひとつに、北条氏が多用するとされるⅢ郭西側に見られる方形に廻らされた馬出(角馬出:かくうまだし)や、同じくⅢ郭全体を廻らすように掘られた障子堀(しょうじぼり)を挙げることができます。これらは、御館の乱の際に北条氏が南魚沼市に位置する樺沢城を占拠したことから、併せてこの城も北条氏の手に渡ったとする可能性を持たせています。

図2 今井城跡の主な遺構
1 大堀切 2 竪堀及び連続竪堀群 3 丸馬出

図2は、津南町に所在する今井城跡の縄張り図です。図中3に見られる箇所が大手口に当たり、鍵形に屈曲を見せる堀により外郭とⅡ郭とに区画されています。屈曲した箇所の左側には、三日月形に掘られた堀があり、その内側を通ると、鍵形に掘られた堀に到ります。ここでは、先ほどの荒戸城跡とは異なり架橋が配置されていたようで、ここが虎口に当たり、三日月堀は虎口を防御するための馬出に当たります。さらにここでは、架橋を渡りⅡ郭に侵入しようとする敵兵に向かい、鍵形に屈曲した面を利用することで、側面より攻撃を加えることができるように考えられた横矢(よこや)も採用され、より一層厳重に防御されていることが分かります。

Ⅱ郭から城の中心であるⅠ郭との間には、大規模な堀切が掘られ遮断線としています。また、Ⅰ郭北東斜面には、十数条に及ぶ竪堀が連続して掘られており、連続竪堀が配置されるといった特徴を有しています。
この城の特徴として、Ⅱ郭虎口を防御するために掘られた馬出堀の平面形状が、先ほどの荒戸城跡とは異なり、弧状に掘られている点を挙げることができましょう。弧状に掘られたいわゆる三日月堀は、その分布調査により甲州武田氏に多く用いられたとされています。既述のように、御館の乱による越甲同盟を契機に津南町・十日町市域には武田氏が進駐してきたことが、古文書(小森澤文書)などで知られています。残念ながら具体的な場所については不明ですが、今井城跡に見られる三日月堀を伴う丸馬出などを考えた時、あるいはこの今井城跡に武田氏が入ったのではないでしょうか。

用語解説
本城(ほんじょう) 領域支配のための根拠地となる城。
支城(しじょう) 領域内を安定的に支配するため、本城を機能的に補完する関係を持つ城。
実城(みじょう) 城郭のⅠ郭(本郭・主郭)、近世でいう本丸を指す。
要害(ようがい) 古文書・古記録などをみると、城郭と同じ意味合いで使われることが多い。
寄居(よりい) 要害と同じような意味合いで使われることが多い。ただし、駐留するといった意味合いをも持たせている。
大手(おおて) 城の正面口。
搦手(からめて) 大手に対して、城の背後を意味する。城兵の退路として用いられる。
郭(くるわ) 曲輪とも書き、それぞれの機能を持たせた区画をもつ平場。各郭は、堀や段差を設けることで区画されている。
虎口(こぐち) 城や城を構成する郭への出入り口。通常、堀や土塁を挟んだ土橋・架橋と一体となって構成される(図1・2参照)。
枡形虎口(ますがたこぐち) 虎口の防御としては最も厳重な構えをなし、土塁・堀などで四角に囲うことからついた名称(図1参照)。
馬出(うまだし) 虎口の前面に堀や土塁をもって敵の侵入を防ぐ施設。兵站性を考慮した大規模なものから、数人規模といったものまで見られる。その形態から大きく丸馬出と角馬出に分けることができる(図1・2参照)。
横矢(よこや) 虎口からの侵入者に対し、側面から攻撃が加えられるように堀や土塁・切岸に屈曲部を設けた施設(図2参照)。
切岸(きりぎし) 城壁斜面を意図的に利用し、郭区画や防御施設として用いたもの。
堀(ほり) 郭の周囲を取り囲むように溝状に掘られたもの。敵からの進入を阻止する遮断施設のひとつ(図1・2参照)。
堀切(ほりきり) 段丘端部に位置する舌状台地や山城などで、尾根線に対し横断方向に掘り切られたもの。敵が侵攻しやすい尾根道を遮断する効果がある(図2参照)。
竪堀(たてぼり) 山や丘の斜面に等高線と直角方向に、山の上から下方へと帯状に掘られたもの(図1参照)。
連続竪堀(れんぞくたてぼり) 竪堀が連続して数条から数十条と掘られたもの。竪堀同様、敵の斜面からの侵攻を防ぐ施設として考えられている(図2参照)。
障子堀(しょうじぼり) 堀底の面が、水田の畦を思わせるような帯状の高まりがあるもの。堀内の移動を拘束、または保水を目的としたとする考え方がある。北条氏関連の城郭に多く見られる(図1参照)。
土塁(どるい) 土を盛り上げ、帯状に築いたもの。戦国時代になると、堀に沿う形で築かれることが普遍化される(図1・2参照)。