秋山の古風(前編)
信濃と越後の国境に秋山といふ処あり、大秋山村といふを根元として十五ケ村をなべて秋山とよぶ也。秋山の中央に中津川といふありて、すえは魚沼郡妻有の庄(新潟県津南町)をながれて干曲川(信濃川)に入る川也。川の東西に十五ケ村あり。東の方に在る村は(● 印は越後にぞくす▲印は信濃にぞくす)●清水川原村 人家二軒あり、しかれども村の名によぶ ●三倉村 人家三軒 ●中の平村 二軒 ●大赤沢村 九軒  ●天酒村 二軒 ▲小赤沢村 二十八軒 ▲上の原 十三軒 ▲和山 五軒 酉にある村 ●下結東村 ●逆巻村 四軒 ●上結東村 二十九軒 ●前倉村 九軒 ▲大秋山村 人家八軒ありて此地根元の村にて相伝の武器など持しものもありしが、天明卯年の凶年に代なしてかてにかえ、猶たらずして一村のこらず餓死して今は草原の地となりしときけり ▲屋敷村 十九軒 ▲湯本 温泉あり 此地東には苗場山天に聳えて連岳これにつゞき、西に赤倉の高嶺雲を凌て衆山これに双ぶ。清水川原は越後の入り口、湯本は信濃に越るの嶮路あるのみ。一夫是を守れば万卒も越え難き山間幽僻の地也。里俗の伝へに此地は大むかし平家の人の隠たる所といふ。牧之謂らく、鎮守府将軍平の惟茂四代の后胤奥山太郎の孫城の鬼九郎資国が嫡男城の太郎資長の代まで越後高田の辺鳥坂山に城を構へ一国に威を震ひしが、謀叛の聞えありて鎌倉の討手佐々木三郎兵衛入道西念としばしば戦ひて終に落城せり。此時貴族の落人などの此秋山に隠れしならんか。里俗の伝へに平氏といへるもよしあるに似たり。
此秋山には古の風俗おのづから残れりと聞しゆえ一度は尋ばやとおもひ居りしに、此地をよくしりたる案内者を得たりしゆえ、偶然おもひたち案内が教にまかせ、米味噌醤油鰹節茶蝋燭までをも用意して従者にもたせて立いでしは文政十一年九月八日の事なりき。その日は秋山に近き見玉村の不動院に一宿、次の日桃源を尋ぬる心地して秋山にたずね入りぬ。さて入り口に清水川原といふあり、ここにいたらんとする道の傍に、丸木の柱を建、注連を引わたし、中央に高札あり、いかなる事ぞと立よりみれば、小童のかきたるやうのいろは文字にて「ほふそふあるむらかたのものはこれよりいれず」としるせり。案内曰く、秋山の人は疱瘡をおそるる事死をおそるるが如し。いかんとなれば、もしはうそうするものあれば我子といへども家に居らせず、山に仮小屋を作りて入れおき、喰物をはこびやしなふのみ。すこし銭あるものは里より山伏をたのみて祈らすもあり、されば九人にして十人は死する也。此ゆえに秋山の人他所へゆきてはうそうありとしれば、何事の用をも捨て逃かへる也。されば此地にては疱瘡する者甚だ稀也、十年に一人あるかなしか也と語り。さて清水川原の村にいたりしに家二軒あり、(家居の作りさま他所にかはれり、その事は下にいふべし)しばしここにやすらひて立出しに、これよりまづ猿飛橋を見玉へとて案内は前へ立てゆく。此秋山の道はすぺて所の人のかよふべきためにのみひらきたる道にて、牛馬はさらにつかはざる所なれば、ことさらに道狭く小笹など深くしてやうやう道をもとむる所しばしばなり。かくてかの中津川の岸にいたれり。岸の対ひ逆巻村にいたる所に橋あり、猿飛橋といふ橋のさまを見るに、よしや猿にても翼あらざれば飛ぶべくもあらず、両岸は絶壁にて屏風をたてたるが如くなれども、岸より一丈あまり下に両岸よりさしむかひたる岩の鼻あり、これをたよりとして橋を架したる也。橋ある所へ下らん為に梯をまうけてあり、橋は直なる丸木を二本ならべにし、細木を藤蔓にてあみつけたるなり。渡りは二十間あまり、橋の広さは三尺にたらず、欄干はもとより作らず、橋を渡りて対ひの岸に藤綱を岸の大木にくくし下げてあり、之に縋りて岸にのぼるたよりとす。ただ見るさへ危ければ、芭蕉が蝶も居直る笠の上といひし木曾の桟にもをさをさ劣らず。此橋を渡るにやといふに、案内がいないな今日は此岸につきて東の村村を見玉ひて小赤倉村にいたり玉はば程よき道なるべし、小赤倉には知る人もあれば宿をもとむぺしといふ。橋をわたらずとききて心おちつき、岩にこしかけて墨斗とりいだし橋を写しなどして四辺を見わたせば、行雁峯を越て雲に字をならぺ、走猿梢をつたひて水に画を写す、奇樹崖に横たはりて竜の眠るが如く、怪岩途を塞ぎて虎の臥すに似たり。山林は遠く染て錦を布き、灌水は深く激して藍を流せり。金壁双び緑山連りたるさま画にもおよばざる光景也。目かれせねばしばしやすらひたるに、農夫二人きたりおのおのかますを脊負てかの橋をわたらんとす。岸にたちてこれをみれば、かの梯を石壇のごとくふみくだり、橋をゆく事平地のごとく、その半にいたれば橋揺々として危き事いはんかたなく、見るにさへ身の毛いよだつぱかり也。わたりはててかの藤綱にすがりて岸にのぼりしさま猿のごとし、はからず人のわたるを見て目を新にせり。さてここを去て例の細道をたどり、高にのぼり低に下り、よほどの途をへてやうやく三倉村にいたれり、ここには人家三軒あり、今朝見玉村より用意したる弁当をひらかばやとあるいへに入りしに、老女ようちなつたといひつつ木の盤の上に長き草をおきて木櫛のやうなるものにて掻て解分るさま也。いかなるものにて何にするぞと問へば、山にあるいらといふ草也、これを糸にしてあみ衣を作るといへり。あみ衣といふ名のめづらしければ強てたづねければ、老女はわらひてこたへず。案内がかたはらよりあみ衣とは婆々どのの着たるあれ也といふ、それを見ればさよみのやうなるを袖なし羽織のやうにしたる物也。茶を乞ひければ老女果してまづ疱瘡の事を問ふ。案内がいふ、我々は塩沢より秋山を見にきたりしもの也、しほさはには去年此かたはうそうはなしといふ。老女いはく、うらが内のものは今年は井戸蛙のやうにさつかがんで里へは一度も出なんだといひつつくみ出したる茶をみれぱ、煤を煮だしたるやうなれば、別に白湯をもとめて喰しをはり、つらつら此住居を見るに、礎もすえず掘立たる柱に貫をば藤蔓にて縛りつけ、菅をあみかけて壁とし小き窓あり、戸口は大木の皮の一枚なるをひらめて横木をわたし、藤蔓にてくくしとめ閾(しきい)もなくて扉とす。茅葺のいかにも矮屋也。ただかりそめに作りたる草屋なれど、里地より雪はふかからんとおもへば力は強く作りたるなるべし、家内を見れば稿筵(わらむしろ)のちぎれたるをしきならべ稲麦のできぬ所ゆえわらにとぽしく、いづれのいへもふるきむしろ也納戸も戸棚もなし、ただ菅縄にてつくりたる棚あるのみ也。囲炉裏は五尺(約1.5m)あまり、深さは灰まで二尺(約60cm)もあるべし、薪多き所にて大火を焼くゆえ也。家にかちたるものは木鉢の大なるが三つ四つあり、所にて作るゆえ也。薬鑵土瓶雷盆などいづれの家にもなし、秋山の人家すべてこれにおなじ。今日秋山に入りここにいたりて家を五つ見しが、粟稗を刈こむころなれば家に居る男を見ず。さてやすらひしうち、杤の実をひろひて山よりかへりしといふ娘を見るに、髪は油気もなくまろめつかねたるを紵にて結ひ、ふるびたる手拭ひにて頭巻をなし、木綿袷の垢づきたるが常なみより一尺(約30cm)もみじかきに、巾二寸(約6cm)ばかりのもめん帯をうしろにむすべり。女のはちまきするとおびの巾のせばきは古画にもあまた見えたる古風也、きるもののみじかきもいやしきものの古風也。秋山の女みなかくの如し。老女に土地の風俗などたづねしが心かよはざれぱさらにわからず、物をとらせてやがて立さりけり。(後編に続く)